2014年8月12日火曜日

戦中・戦後の食糧事情とアメリカひじき


夾竹桃 原爆の花といわれる

1944年3月、大阪に住んでいた一家5人(父・母・兄・私・弟)は
山口県小野田市の父の実家に疎開として帰ってきました。
父は、お国のために日夜働きづめで肺結核を患い
会社を辞めることになったからでした。
食糧の配給は少なく遅配があったりで仕方なく、
父は病を押して日蔭の空き地を開墾しました。

庭にもさつまいもやかぼちゃを植え、屋根に這わせていました。
蒸したさつまいもだけの昼食もあり、さつまいもの茎も食べました。

9月に弟が 生まれました。

45年 挙国草刈り運動が発令され、私たちも学校から
草刈りの宿題が出されました。
包丁も鎌も持ったことがない私は、左人差し指のつけ根を切って
しまいました。祖父が手伝ってくれて、その宿題を果たすことができました。
今もその傷はくっきりと残っています。
学校の校庭も畑になり、多分その草はたい肥に
なったのだろうとおもいます。

おしろい花


 また、秋口には、いなご取りで、学校からたんぼに出向、
班ごとに競ってとるのですが私は全く苦手でした。
友達に睨まれて小さくなっていました。

そのいなご入り草入り塩団子が配給(有料)となり5個注文していたのですが、
持って帰る途中1個減り、時にはもっと減っていたかも・・・
とても誘惑に勝てませんでした。

配給の食糧の中に、お米(玄米)・押し麦・大豆かす(油を絞り取った潰れた大豆)
コウリャンなどもありました。

米は精米して白米にすると量が減ってしまうので、
玄米や5分つき米が配給されました。

我が家でも1升瓶にお米を入れて竹の棒でつついて精米していました。
そのそばでたばこ巻き器で、たばこを巻いていました。
紙とたばこを刻んだものが配給され、自宅で巻くのです。
興味深く見ていました。

1升瓶の精米と、たばこ巻きはセットになって記憶が蘇えってきます。

戦火が隣の街に及び、父の病は悪化の一途をたどりました。
45年には起き上がることができなくなっていました。
栄養をとらなければいけない体に充分な食糧はなく
時折父の食事を運んで行くと、鶏肉を一切れ私の口に入れてくれました。

父の最後の晩餐ともいえるリクエストは「お餅が食べたい」と
云うことだったらしく、母はもち米を蒸してすり鉢ですってお餅を作っていました。



父は体調のいい時は縁側で長い日本刀を日にかざし
手入れをしていました。
赤い布のたんぽんでポンポンと叩いていました。
とても威厳がありました。

7月31日 とうとう父の命は終わってしまいました。
私と弟は親せきの家にもらい風呂に行き、夕日を浴びながら
手をつないで家に帰りました。

辺り一面消毒液の匂いが立ち込めていました。
敗戦の15日前の事です。
後に敗戦を知らずに亡くなった父を、それで良かったのだと
大人たちは云い合っていました。


1945年(昭和20年)8月15日  敗戦

日本は敗戦国としてGHQ(連合国)の支配下に置かれました。
MPの腕章をつけた大男の米兵がジープに乗ってあちこちに現れました。

山陽本線の小野田駅近くの踏切で、列車のデッキからチョコレートや
チューインガムを投げる米兵とそれに群がる子供たち、
ギブ・ミー・チョコレート  ギブ・ミー・チュウインガム 
そんなことばも覚えました。

配給のみで暮らしていた判事が栄養失調で亡くなるという
出来事がありました。

1946年5月19日 食糧メーデーが起こりました。
25万人の人々が、食糧を求めて皇居前広場でデモを行いました。

1946年 GHQが捕鯨船の出漁を許可
大切な蛋白源でした。
赤身を塩漬けにした塩鯨、鯨油も配給になりました。
匂いが強く好きになれませんでした。

冷酒用グラス・からし・胡椒入れ


1946年 輸入食料の第一船が、小麦粉1000t を積んで
東京港に到着しました。

ララ「アジア救援公認団体」による救援物資です。

ララはアメリカ合衆国救済統制委員会が1946年6月に
設置を許可した日本向け援助団体。
1946年1月22日 サンフランシスコ在住の日系人
浅野七之助が中心となって設立した。「日本難民救済会」を母体としている。
反日感情が残る中での「アジア救済公認団体」認可に際しては、
知日派のキリスト教友の会員の協力によるところが大きい。

支援物資は1946年11月から1952年6月まで行われ
重量にして3300万ポンド余の物資と乳牛や2000頭を超える山羊などもあり
全体の割合は

食糧・・・・・75.3%
衣料・・・・・19.7%
医薬品・・・0.5%
その他・・・4.4%    となった。

多数の国にまたがり、多くの民間人、多くの民間団体からの
資金や物資の提供があったためその救援総額は不明であるが、
推定で当時の400億円という莫大な金額であったと言われている。
南アメリカ大陸在住の日系人が寄付の中心であったが、
日本国内での物資配布に当たっては連合軍最高司令官総司令部の
意向により日系人の関与について秘匿されアメリカからの
援助物資として配布された。





救援物資の小麦粉でだんご汁(すいとん)を作り、嫌になるほど食べました。
子ども心に最もおいしいと思ったのはピーナツバターで、
大きな缶に入っていました。自然な甘さと香り、濃厚なこく、初めての味でした。


野坂昭如さんのアメリカひじき(42年作)

私の中で一見笑い話のように残り深く沈んでいる、
アメリカひじきの部分ですが

8月15日 玉音放送後夕暮の空から落下傘が沢山降ってくるのを見た。
捕虜用に落下した物資だったが、多量のため日本兵によって町内に
秘密裡に分配されて食料品を貰えることになった。
中身はチョコ・ガム・チーズ・ジャム・ベーコン・ハムなどびっしり分配された。
宝物の中に掌山盛りほどの黒いちぢれた糸くずのようなものがあったが、
見当がつかなかった。近所のおばさんに「ひじきに似てるわ」といわれ
煮てみると水が赤茶に変わった。「アメリカひじきはアクが強いわね」と
何回も水を替えて岩塩で味付けした。
ものすごくまずかったがひもじかったので、捨てることもできなかった。
3日後兵隊から聞いてきた町会長がアメリカひじきが
「ブラックテー」(紅茶の葉)だと教えてくれた時には
アメリカひじきは残っていなかった。

これは作品のほんの一部にすぎません。
闇市作家と言われたこともある野坂さんの戦中戦後のさまざまな思いが
ぎっしり詰まった作品だとおもいます。


香水瓶と小さな花瓶


46年  学校給食が開始されました。
初めての給食は脱脂粉乳とトマトシチューだったそうですが、
私たちのところにはなかなか届きませんでした。
脱脂粉乳だけは飲んだ記憶があります。

衣類も魚も配給制で一軒のお宅の前で品物を分け、
時に籤引ききがありました。運が良かった記憶があります。


最後に、こんなエピソードを見つけました。

1950年  ミス日本 第1回コンテストが行われました。
 
発足時ララ物資への感謝とお礼及び日米親善を目的として設立されました。

第1回ミス日本 優勝者は 山本富士子さんでした。



あらゆるものが乏しい時代に 祖父と4人の子供を抱え
何とか命を守り続けた母、強く強く生きなければと
自分自身を奮い立たせて生きてきた母を誇りに思います。


二度と戦争が起こらない・起こさない国であり続けて欲しいと
願ってやみません。











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